このエリアには、建築構造をもつ墓(墓室型、囲い地を伴う墓室型、ファサードの壁に密着するレンガ造りの寝台を備えた墓室型)と、簡素な墓(赤い漆喰が塗られたカッソーネ型、墓の前に小堂があるもの・ないもの、カップッチーナ型、アンフォラ棺、テラコッタ製や木製の石棺、土抗)が見られる。この区画の特徴は、「貧しい墓」と呼ばれる簡素な墓の数が非常に多い点であり(600基以上)、1930年代の発掘時に解体されたものや、1990年代に調査されたものがある。これらの墓は大部分が個人墓であり、不火葬埋葬が優勢であった。多くは砂地に穴を掘った墓であり、地表にある献酒用の導管や、円状に並べられたアンフォラや石によってその場所が示されていた。
54番墓、55番墓:墓室型であり、ファサードに密着させて設けられていた饗宴のための備え付けの用具と、火葬・不火葬の複合儀式に備えたアルコソリウム(アーチ形壁がん)とオッラ(骨つぼ)を配置するニッチが墓室内に残存する。54番墓は紀元130年頃のものと考えられ、幾何学模様のモザイク床には被葬者の名前である「Titus Iulius Argius」が記されている。55番墓はアントニヌス朝時代(138~192年)のもので、豪華な絵画装飾が施されていたが、その大部分は取り外されてしまった。
56番墓:小堂型。小堂は、55番墓の後ろ側に再配置されたが、当初は北側の壁に密着させて配置されていた。半開きの扉に囲まれた被葬者の姿はこの世からあの世へ行く死の瞬間を象徴的に表している。推定時期:二世紀半ば。
57番墓、58番墓:墓室型。そのファサードはわき道に面している。57番墓が通常と異なる点は建物の外側にも絵画装飾が施されていたことである。58番墓では、墓室内部のアルコソリウム(アーチ形壁がん)のひとつにモザイク装飾が残存している。推定時期:二世紀半ば。
60番墓、63番墓、64番墓、69番墓: 墓室型。いずれも火葬埋葬向けに造られた。63番墓のニッチの下には、大理石の板があり、おそらく被葬者の名前が描かれていたと考えられる。64番墓は、他の墓とは違い、海の方向に向いている。しかし、銘板は道路に向いた壁に取り付けられている。69番墓には、饗宴に使用されたレンガ造りの備え付けの用具が残存している。推定時期:二世紀前半。